このページは古事記をテーマに、太安萬侶が古事記編纂で苦労したことについてまとめました。前回は、古事記の成立は正しい帝紀・旧辞を後世に伝えるために編纂されたです。
重要なポイントを抑えつつも難しいことはナシに分かりやすい記事作りに努めていますので、よかったら最後までお付き合いください。
「あなたの感想ですよね?」程度によんでください。
古事記は約4ヶ月かかって編纂された
古事記については「古事記の成立は正しい帝紀・旧辞を後世に伝えるために編纂された」を読んで頂けると、古事記って何?どんなの?が分かると思います。
天武天皇の国史編纂の御発意が大体680年です。それから時が経ち、元明天皇から「稗田阿礼が誦習する帝紀・旧辞を詳細にまとめなさい」とご命令されたのが711年9月18日のことでした。
そして太安萬侶は712年1月28日に元明天皇に「古事記」を献上しました。この間、約4ヶ月です。
「4ヶ月って、けっこう短いのね?もしかして編纂は簡単だったんじゃないの?」って意外だったかもしれません。でも、そうでもないですよ。
稗田阿礼の誦習を文字にするのは難しかった
稗田阿礼の誦習を文書化するには問題がありました。いまでは当たり前と思っている平仮名は当時まだ発明されていません。当時の公式文書は漢文で、しかも天皇に献上しなくてはなりませんでした。
あなたも「しゃべるのは得意だけど文章はちょっと・・・」「社長に提出する書類なんてムリだよ!」って思うんじゃないでしょうか?
さて、太安萬侶はどうするか?その時の気持ちが序文に書かれています。
上古の時は、言(ことば)は意(こころ)とみな朴(すなほ)にして、文を敷き句を構ふること、字におきてはすなはち難し。
すでに訓によりて述べたるは、詞、心に逮(およ)ばず、またく音をもちて連ねたるは、事の趣、さらに長し。
稗田阿礼が伝える物語や歴史をそのまま文章にしてしまったら、素直な心が失われてしまうと悩みました。漢字では表したい意味や表現ができない、心を伝えられないと太安萬侶は考えました。
苦肉の策!和漢混合体を生み出した太安萬侶
漢文で書くことが絶対ルールの中で、当時の人々の心を表せる漢字や書き方を模索しなくてはなりませんでした。
太安萬侶がどのように問題点を克服したかについては序文に書かれています。
あるは一句の中に音・訓を交へ用い、あるは一事の内にまたく訓を持ちて録しつ。
すなはち、辞理の見えがたきは注をもちて明らかにし、意況の解りやすきはさらに注せず。
いまでいう和漢混合体について書かれています。和漢混合体とは日本語の漢字と漢文体が混ざった書き方をいいます。これならすべて漢字で書くことができます。
日本での漢字の使い方は音読みと訓読みがあり、2通りの使い方をしています。そこで音注をつけて文章を読みやすくしました。
余談:実は、私は古事記をなめてました
「和漢混合体って漢文が書けない、馬鹿なヤツが書いたんだろう」と私は思っていました。
授業では、「中国人が読んでも読めない和製漢文で書かれているのが古事記で、正式な漢文で書かれているのが日本書紀」と説明があり、「正式な」がやけに強調されていたように思います。
そういう教師の刷り込みで、私は古事記は漢文が書けないヤツが書いたんだな、と馬鹿にしてました。バカなのは私でしたよ。ごめんね、太安萬侶。
和製英語とか、他にルーツがるものを日本でアレンジしたり新たに作ったことをバカにしているような風潮がありませんか?別に「ナイター」っていいと思うのですよ。コーヒーだってアメリカンやウィンナーコーヒーがあるじゃない、ナポリタンだって素晴らしいわ!
太安萬侶って実はすごい人
そうはいっても、太安萬侶は日本書紀の編纂にも関わっていたといわれていて、日本書紀完成後の何回か行われた講演会に登壇してます。また、続日本紀にも経歴が載っています。
わりと気軽に私は「おおのやすまろ」と呼んでいますが、実はスゴイ人だったようです。
お気づきかもしれませんが太いと書いて「おおの」と読んでします。「多」と同じ氏族です。彼の代に一時期「多」を「太」としていました。
多氏の氏神を祀る神社の経済は大神神社をかなり抜いていました。多氏が大和国ではかなり有力な豪族でした。太安萬侶は古事記を編纂後に、わずか4年で多氏一族の長になりました。
日本書紀では編纂に12名が加わっていますが、古事記ではたったの2人です。なぜ太安萬侶が選ばれたのか、無能で権力もないヤツは和漢混合体なんて生み出せません。太安萬侶は菅原道真並に尊敬されてもおかしくないレベルです。
次回は何度も出てきました日本書紀について、古事記と日本書紀の違いを中心にまとまています。よかったら続けて読んでみてくださいね。
実は太安萬侶は謎の人だった
実は、古事記を編纂した太安萬侶の存在は疑問視されていました。それが、昭和54年4月に奈良市の茶畑から墓誌が発見されて、存在が確かになったのです。
私は小さかったので全く覚えていませんが、神道関係の人には大事だったようです。私の尊敬する先生は多神社にお参りしたとき際に宮司さんをお見かけして、「太安萬侶の子孫だ!」と感動のあまり握手を求めてしまったそうです。
古事記を知っているのと知らないのでは、神社巡りも感動が変わりますよね。
さて、今回は古事記編纂に当たって、太安萬侶の苦労と発明をまとめました。
- 古事記の編纂は4ヶ月かかった
- 稗田阿礼が誦習した言葉を文書にするには難しかった
- 文書にすることで当時の人々の心が失われるかもしれない
- 音訓混ぜた漢文で、注釈をいれて漢文を書いた