神社でよく見る白い紙飾りの紙垂についての推察

紙垂の推察 神道関係

このページでは紙垂についてまとめました。

インターネットでは紙垂の由来は雷説が多いですが、本当なのかと疑問に感じ、本や論文を調べました。私は「雷説は中央から郷、郷から各家庭へ伝わる際にそれらしい理屈だから広く流布された」と推察します。

紙垂の語源は「しだれ」

紙が垂れると書いて紙垂(シデ)と読みます。単に「垂」でも「四手」または「志伝」とも書きます。垂れ数は4垂れが多いですが、3垂れ、5垂れ、6垂れ、7垂れ、8垂れと大きさや用途によって、または地域によって垂れ数が変わります。

紙垂は幣帛の一種です。幣帛とは神様に奉献する神饌意外のものの総称で、注連縄に下げられたり、玉串や神籬、幣束・幣串、大麻にも使われます。そのため紙垂は何かとセットで奉納され、紙垂単体で奉納されることはありません。

さきほど紙垂は単に「垂」と書くといいましたが、そこに紙垂の語源があります。最古の歴史書と言われる712年に編纂された古事記の天岩屋戸神話に紙垂が書かれているので引用します。

天の香山の五百つ真賢木を根こじにこじて、上つ枝に八尺の勾玉の五百つの御すまるの玉を取り著け、中つ枝に八尺鏡を取り懸け、下枝に白丹寸手・青丹寸手を取り垂でて(垂を訓みてシデといふ)

新潮日本古典集成より

白色は楮(こうぞ)で青色は麻です。丹寸手は和幣で「にきて・にぎて・にぎで」と読みます。通常は楮や麻で織られた布や繊維を指します。ご神前に5色の布が垂れ下がる真榊をみたことがありませんか?その由来でもある箇所です。

シデとはその端が下に垂れる様子の「しだれ」が「しで」となり、そのものを「しで」と呼ぶようになりました。

楮から紙が作られて紙垂となる

主に楮や麻が何かに取り付けられてしだれる様子から「シデ」となりました。つまり、しだれれるものであればシデと呼ばれていた、と。

楮の繊維だった「垂」が、紙となり「紙垂」と表記されるようになりました。今でもお祓いで使用される大麻(おおぬさ)は紙ではなく、麻を束にしている神社さんがあります。

楮から和紙が作られます。楮を蒸して、皮をはぎ、外側の黒い皮を削り煮て、皮を水にさらしアクをぬき、皮を叩いて繊維をほぐし、トロロアオイの根からでた粘液と一緒に紙をすきます。そして、水を絞り乾燥して出来上がりです。

楮の皮を使いますが、楮の木(枝)は使用しません。ワインの栓であるコルクならば、木が生長すれば皮ができますが、楮は違います。そのこともあり、今よりももっと昔は紙は貴重でした。

麻も現在は手に入りにくくなってはいますが、楮の繊維を扱っている神具店は聞いたことがありません。シデは紙垂を麻で結い、麻を紙垂と同じ長さで垂らします。上質な麻は黄金に輝き、紙垂の白さの対比がとてもキレイです。

いつからシデが紙垂になったのか

日本最古の紙は大宝二年(702年)に作られた戸籍がかかれた美濃和紙で奈良の正倉院に保管されています。すでにこの頃には重要な情報は紙に記すようになっていたと考えていいと思います。

では、和紙はいつから作られるようになったかは、まだ特定されていません。渡来人や仏教の伝来と共に伝わったという説と紙すきは日本独自に発生したという説があります。

現存しませんが、日本最古の書物は聖徳太子が615年に書かれた『法華義疏』があります。律令制度の成立に紙は欠かせなかったはずなので、7世紀にはすでに実用化されいた。そうなると6世紀にはすでに作られていたと考えられます。

7世紀に実用化されていた紙が紙垂に使われるようになるのは、もう少し後の平安時代ではないかなと思います。絵巻など絵になったものの初見が分かれば、だいたい見当がつくのではないかと思います。(調べる術がないのでお許しください。)

紙垂はどうしてあのギザギザした形になったのか

今よりも更に貴重だった和紙。貴族さえも頂いた手紙の裏まで使う時代。いつの時代でも同じだと思いますが、貴重なものは神様へのお供えになります。

どうして紙垂はあのようなギザギザしたカタチになったのでしょうか?

紙垂の形はカミナリの形をしている説

カミナリ説が有力です。一般的に「紙垂」といえば注連縄に飾られた紙垂を思い浮かべる人が多いのはないでしょうか。神社に奉納される注連縄は多くは氏子さん達が手作業します。

田んぼで採れた雷が恵みの雨を呼び、田んぼに落ちればその年の稲作は豊作になると信じられました。そのため氏子さん達は豊作の願いを込めて、注連縄で有る藁(稲)に稲妻の形をした紙垂を取り付けたと考えられています。

『銀河鉄道の夜』「セロ弾きのゴーシュ』で有名な宮沢賢治も花巻農学校で教鞭を執っていた頃、「注連縄の本体は雲を、シメの子(垂れ下がっている藁)は雨を、紙垂は雷を表している」と生徒に教えていました。

私は単に紙を細く長くしただけ説をとる

ちょっと不思議に思うのですよ。神社はおおまかに2通りに分けられると思います。神話にも登場し天皇家と関係があるような神社さんと一般の郷の神社。神位や社格に差があります。雷説は郷の神社での注連縄の奉納の話に聞こえます。

紙垂の原型はまずは伊勢や天皇祭祀で使われたか、または楮で紙を作りはじめた郷の神社で使われたのではないでしょうか。

まず初めは紙としてお供えした。御幣のような丸めて折っただけ、大型の御幣みたいな感じで使われたのではないかと想像します。神様にお供えするのに、紙切れ一枚ということはないでしょう。

和紙の御幣が先か、紙垂が先かも検討が必要ですが、私は紙垂が先ではないかと思います。御幣と紙垂は形が共通するからです。神様によって御幣を変えますが、これは『御幣の作り方』照本郁三編によるとただ串に紙を挟んだだけでは見た目が寂しいから、紙を切って左右に垂れるようにした、修験者などが各々見栄えを良くしていったと書いてありました。

練り歩くタイプの祭りでは大型幣束が見栄えがいいです。祭祀の発展から考えると、練り歩きタイプは神前完結タイプの後に発展したと思います。

私も『御幣の作り方』と同じように紙は貴重だったため限られた紙で楮(麻)の繊維と同じ長さや見栄えにするために細く長く切った、と考えます。

なぜ紙が普及したか

紙を作るのには大変な手間がかかるのに、なぜ紙が普及したのでしょうか?「シデ」ならば垂れていればOKなのになぜ、麻だけじゃなかったんでしょうか?

『御幣の作り方』に「古事に紙垂をつけた習慣はない。遠くから目立ちように紙垂をつけた。それがいつしか聖域を示す象徴となった」とあった。

確かに麻や縄は遠くから見ると、風景に溶け込みます。夜道でも黒い服と白い服では白い服の方が光を反射し、歩行者を見つけやすい。聖域は開けた明るいところよりも少し薄暗い所の方が多いように思います。紙垂の白色によって目立ちやすい可能性はあります。

持統天皇の御製「春過ぎて夏来にけらし 白たへの衣干すてふ天の香具山」は新緑と白い衣、青い空の対比が美しい歌です。紙垂は注連縄だけでなく榊の枝や木に取り付けられます。榊の深緑と紙垂の白さはこの歌と共通する美しさがあります。

持統天皇の御製の白い衣は一説には田植えをする早乙女が物忌みのために着る衣ではないかと言われています。白は清浄を表します。お供え物や祭具が清浄であることをより強く示すには紙の白さが良かったのかも知れません。

また、修験者が幣束が各々独自の形にして発展していったように紙であれば形を変えられる自由があります。紙垂の垂れ数が神社によっても違うように区別をつけやすかった、それによって意味づけや権威付けして流派と発展しやすかったとも考えられます。

まとめ:紙垂が出来た当初は意味はなかった

紙垂の上方の折り方は私流です。流派があるのかな

ここまでお付き合い頂きありがとうございます。ツラツラ書いてきたのでまとめます。

紙垂は神様に奉納するものの一種で、現在、私たちが使う「紙垂」と古代の「シデ」は違いました。シデとは垂れるものを呼びます。その多くが麻や楮でありました。そのおもかげを古事記の天の岩屋戸神話にみることができます。

紙垂は地域や流派によって2垂れ、3垂れ、4垂れと垂れ数や折り方が異なりますが、一般的には4垂れの吉田流が普及されています。吉田流が中世から神道の資格を管理していたためだと考えられます。

紙垂の由来は諸説あり、一般的にはカミナリの形を模したといわれています。

しかし、私は単に紙を切って長さや見栄えを考慮した結果だと思っています。カミナリ説における注連縄は鳥居や神棚のある一定の長さが感じられるので中央から地方へ、また地方から各家庭へ伝わる際にカミナリと稲作の関係からカミナリ説が普及したと考えています。

カミナリ説を裏付ける決定的な書籍や学説が見つからなかったので、私の説が間違っているとは断言できません。ただ、カミナリ説が言い伝えられていることが重要だと思うし、神社さんごとに注連縄が違ってよいのだから、その伝承や伝統を大事にしていきたいですね。

今後とも紙垂の成り立ちについて調べていきたいと思います。

みきみかん
みきみかん

青和幣、白和幣は青白幕として皇室やお祭りで祭壇に張られているよ

一番後ろに青白幕があるね。紙垂も沢山使われているよ

*参考サイト:レファレンス協同データベース「紙垂の意味と由来をしりたい。また、なぜZ形なのか」