どうして古事記と日本書紀は同時期に編纂されたの?
このページでは古事記をテーマに、古事記と日本書紀の成立の背景について書きました。
712年に太安萬侶によって古事記は編纂されました。その8年後の720年舎人親王ら12名が40年にわたり編纂した日本書紀が元正天皇に献上されました。
なぜ8年という短い間に2つの国家事業である歴史書が編纂されたのでしょうか?なぜ1つだけではだめだったのでしょうか?この疑問に迫ってみたいと思います。
それは、「古事記は国史の史料の一つとして編纂されたものだった。古事記は一つの流れでまとまっており分かりやすく更に情緒的だったため、ただの史料の域にとどまらず大切に読み継がれた」のだと私は古事記と日本書紀の成立の背景についてまとめているうちに思うようになりました。
最後までお付き合いくださいね。
テキトーに読んで。間違ってたら「バカだな」って流してやってね。
通説としての記紀の意義
古事記と日本書紀(あわせて記紀と呼びます)は、おなじ歴史書でありながらもタイプが異なっています。詳しくは「古事記と同時期に編纂された日本書紀との違い」をご覧ください。
太安萬侶は稗田阿礼が誦習した帝紀・旧辞の言葉の素直さと素朴さを大切にするために変体漢文で書き記し、天皇家を中心とした一筋の物語を神代から推古天皇の時代まで書きまとめました。
一方の日本書紀は日本の歴史を知らしめるために中国の歴史書と同じ書き方で、諸家につたわる話を「一書に曰く」で公平に話を書きまとめました。
記紀の違いから古事記は日本国内に天皇家の正当性を示すために、日本書紀は外交のために書かれたと考えられています。
そして、天武10年3月の詔が古事記と日本書紀の編纂がはじまったと考えられています。
記紀の成立理由は、よく分かっていない
天武天皇の御発意で古事記と日本書紀の編纂は天武10年3月の招集が由来とされています。
丙戌に天皇大極殿に御して、川嶋皇子・忍壁皇子・広瀬王・武田王・桑田王・三野王・大錦下上毛野君三千・小錦中忌部連首・小錦下安曇野連稲敷・難波連大形・大山上中連大嶋・大山下平群臣小首に詔して、帝紀及び上古の諸事を記し定めたまふ。大嶋・小首、親ら筆を執りて以て録す。
日本古典文学大系より
該当するこの部分に稗田阿礼の名前はありません。そのため天武天皇はなぜ稗田阿礼に詔した理由がわからないため、680年の召集の前か後が決着がついていません。
稗田阿礼は古事記序文にしかでてきませんし、古事記成立についても古事記序文にしか記されていません。ただ「帝紀及び上古の諸事」が古事記序文にある帝紀・旧辞(本辞)にあたると考えられています。
朕聞く、諸家のもてる帝紀および本辞、すでに正実に違ひ、多く虚偽を加ふときけり。今の時に当たりて其の失を改めずは、未だ幾年をも経ずして其の旨滅びむとす。これすなはち邦家の経緯、王化の鴻基なり。故、これ帝紀を選録し、旧辞を討かくして、偽を削り実を定めて、後葉に流へむと欲ふ
稗田阿礼の誦習と680年の召集の関係性は3つ考えられます。
- 12人を招集する前に稗田阿礼と小規模で編纂を始めたが、上手くいかなかったので招集した
- 招集後なかなか編纂が進まないようなので、稗田阿礼と小規模で始めた
- 天皇の私的行為で稗田阿礼に誦習させたので、招集とは関係ない
どれのか史料がないので決着がつきませんが、天武天皇は正しい帝紀・旧辞を選録しようと御発意されました。
天智天皇・天武天皇の時代は中央集権への基礎固め
天智天皇・天武天皇の時代は中央集権への基礎固めをした時代といえます。主な年表をまとめました。
645 | 乙巳の変 |
663 | 白村江の戦い |
668 | 大津宮で天智天皇が即位 |
近江令の制定 | |
670 | 庚午年籍の作成 |
671 | 天智天皇崩御 |
672 | 壬申の乱 |
673 | 飛鳥浄御原宮で天武天皇が即位 |
天智天皇は中央集権国家を作ろうとした
天智天皇は乙巳の変を起こし、政治改革を決行しました。天皇と豪族の関係を見直し、公地公民制を実施し土地や人民の管理を行いました。
唐や新羅の勢いが増し百済救援軍を派遣する中で斉明天皇は崩御、白村江の戦いでは負ける結果となりました。これをきっかけに西日本各地に朝鮮式山城を築き、国防の強化を行うことになりました。
天智天皇は自分の権力を脅かすものに容赦なく相手を殺害しました。そのためか、大海人皇子(天武天皇)は天智天皇が病床で伏せっているときに、権力争いに巻き込まれないよう隠居しました。
天武天皇は中央集権体制を強化した
天智天皇崩御後、大海人皇子は大友皇子と権力を争うことになりました。大友皇子とは血縁関係にあります。天皇の主権争いは昔からありましたが家族を分断する争いであったため、大海人皇子は心を傷めたに違いありません。
他の豪族の思惑にはまらずにスムーズに天皇に即位できる制度が必要だと感じたのではないでしょうか。そのため天皇の権威を高めるため、皇族だけで権力を集め政治を行おうとしました。この頃から大王から天皇へ、倭から日本へと名称変更が行われます。
国史編纂事業に関わるタイムライン
天武天皇の国史編纂の御発意から、それに関わりそうなことを表にしました。(言葉使いが適当な言葉かわからずごめんなさい)
680 | 川嶋皇子以下12名に国史編纂を命じる |
681 | 新字の作成を命じる |
691 | 18氏の墓記をまとめさせる |
712 | 太安萬侶「古事記」献上する |
713 | 諸国に風土記編纂を命じる |
714 | 紀清人、三宅藤麻呂に国史編纂を命じる |
720 | 舎人親王「日本書紀」を献上する |
712、713,714年の動きが怪しいと思いませんか?バタバタっと一気に駆け込んでいる感じがします。
この表を眺めていると疑問がわいてきます。
- 記紀の関係は無関係ではないはずだけど?
- もし稗田阿礼の誦習が天武天皇の私的行為なら、なぜ元明天皇は知っていたのか?
- 稗田阿礼が誦習したものは台本があったのか?
- 台本があったのなら誰が参加していたのか?
- 古事記をもって国史としなかったのはどうしてか?
古事記は日本書紀の史料だった
タイムラインを眺めていると、680年から720年の日本書紀完成が1本の線につながっているように感じます。そして、その脇に古事記のラインがあり、712年に本線と合流していく図が想像できます。
古事記は本来は国史の史料として完成されたのではないかと思えてきます。
稗田阿礼の誦習については古事記序文だけしか語られておらず、序文を信じるしかありません。古事記に序文に書かれていて、書紀や続日本紀にもかかれていない。つまり、公の事業ではなかったと考えるしかありません。
元明天皇は稗田阿礼を知っていた
私的レベルで行っていた事業をなぜ元明天皇が知っているのでしょうか。
天皇にプライベートは基本的にはないと思うので、天皇が個人的にされていることであっても情報はどこかに必ず伝わるのでしょう。天武天皇の后である後の持統天皇、息子であり次期天皇と期待されたいた草壁皇子に伝わっていた。
その情報が元明天皇にも伝わったと考えられます。持統天皇と元明天皇とは父に天智天皇をもつ異母姉妹であり、母親同士が姉妹という従姉妹です。
稗田阿礼が猿女君の子孫であれば、元明天皇に即位されてから祭事などで接点はあったかもしれません。
こういうワケで元明天皇も天武天皇が稗田阿礼に誦習させていた歴史書編纂事業を知っていたに違いありません。それで和銅4年(711年)に太安萬侶に「稗田阿礼の誦める所の勅語の旧辞を撰録して献上せよ」といいました。
太安萬侶は日本書紀編纂に関わっていた
日本書紀完成後、講師を招いて日本書紀の講義が行われました。日本書紀完成の翌年に太安萬侶は講義の講師をしたことや、講演後に行われた宴会で読んだ和歌があります。
その後、太安萬侶の子孫の多人長も講師を務めたことを考えると、太安萬侶は古事記と日本書紀の両方に関わっていたと考えられます。
稗田阿礼の誦習の編纂に太安萬侶に白羽の矢が立った理由は壬申の乱の大きく武功を上げたからという説があること、多家は神武天皇の子・神八井耳命の子孫のため天皇家と関係があったと思われます。
古事記は素晴らしかったから残った
では、なぜ史料のひとつにすぎない古事記が残ったのでしょうか?それは天武天皇が関わっていることと太安萬侶の編纂能力が素晴らしかったからです。
公でなかったにしろ天武天皇が稗田阿礼に誦習するように命じた計画です。台本があったにせよ、なかったにせよ、その内容を天武天皇が確認し認めたから稗田阿礼に誦習させました。天皇が認めた内容を臣下がないがしろにはできません。
また、元明天皇の命令で編纂された古事記は天皇家を中心とした一筋の物語で書かれているため理解しやすく、今読んでも感動する情緒豊かな歴史書でした。
そのため、史料の役目が終わっても大切にされたのだと思います。
国史編纂は邦家の経緯、王化の鴻基なり
天智天皇・天武天皇の時代は中央集権国家への基礎固めの時期です。小さな日本が大国と対等に外交する力をつけるため国力の増加は大きな課題でした。そのためには豪族が天皇よりも力を持つことは阻止せねばなりません。
中央集権体制を強化事業の中で天武天皇は国史編纂を行いました。歴史を統一すること、つまり帝紀・旧辞をさだめることは「邦家の経緯、王化の鴻基なり」と言っています。邦家の経緯は国家組織の原理根本、王化の鴻基は天皇政治の基本です。
天皇を中心に国家を一つにすることを決心したのは壬申の乱の影響があったと思います。昔から身内の争いはありました。けれど権力を持った豪族による政治の支配や皇子や親王への口出しを乙巳の変や壬申の乱を経験して、豪族の地位の低下と皇室自身が臣下に左右されない自信をもつ重要性を感じたと思います。
それで、古事記のように一筋の系統でまとめられた歴史書を思いついたのでしょう。そして古事記を日本書紀の史料のひとつとして使ったのだと思います。
以上、古事記について4回にわたってまとめました。第1回は古事記の成立について、第2回は古事記編纂と太安萬侶の苦労、第三回は古事記と日本書紀の違い、今回は古事記成立の背景についてまとめました。
つたないまとめで、特に今回はまだ疑問がのこるかもしれませんが、今後も古事記の勉強を続けて記事の質をあげていこうと思います。時々またこのページにもどってきてくださいね。
短大の講義からこの新潮日本古典集成の古事記を使っています。文字の大きさ・書体が見やすく、老眼が入ってきた人でも読みやすいのでオススメです。変に訳がないので言葉を大事にした太安萬侶の音のリズムを味わえるような気がします。