倭姫命が天照大御神の大宮地を求めて旅をされた場所を訪ねるシリーズです。
三重県に鎮座する伊勢神宮に奉る天照大御神はもともとは宮殿内に奉られていました。
崇神天皇が宮殿内で共に生活を一緒にするのは恐れ多いと思われて、トヨスキイリヒメ(豊鋤入姫)に託し宮殿の外でお祀りするようになりました。
その後御代が替わり倭姫に天照大御神を託され、もっと天照大御神を奉るのに相応しい土地を求めてお供と共にご巡幸がはじまりました。
今回は令和5年5月某日に三重県伊勢市楠部町にある神宮神田周辺の参拝記です。
可愛い最終バスで、いざ黒木鳥居へ
この日は伊勢神宮にお参りして横町を散策したら、もう午後2時になっていました。荷物を軽くしたかったので、伊勢市駅近くの宿に向かいました。チェックインし、荷物を部屋に置いて身軽になって再出発です。
まだ、最終バスに間に合いそうだったので五十鈴川駅に向かいます。伊勢市駅から2つ先の五十鈴川駅に着いて、少し待つとポケモンの可愛いバスがやってきました。
どうも私が珍しい格好をしていたのか、バスの運転手さんに不思議がられ行き先を訪ねられました。「黒木鳥居を見たいんです」と話したら、「もうすでに田植えは終わってますよ?」とさらに不思議がられましたよ。
神宮神田は内宮より2キロほど五十鈴川をくだったところにあります。倭姫世記には神宮神田の起源が書かれており、大神の朝夕の食事に供える御田を定めたとあります。
次に家田の田上宮に遷幸りたまひき。その宮に坐します時、度会の大幡主命、皇太神の朝の御気(みけ)夕の御気所の御田を定め奉りき。宇遅田の田上に在りて抜穂田(ぬいぼた)と名づくるは是なり。
清々しい気持ちになる神宮神田
小学校前でバスをおり、道沿いに200メートルほど歩くと、ちょうど神田の中心あたりに黒木鳥居が立っています。黒木とは、切ったままの皮を剥いでいない状態の素朴な鳥居のことです。大嘗宮でも黒木鳥居が立っていました。
黒木鳥居の置くには白石が敷き詰められており、ここで祭典が行われます。令和5年は5月13日に御田植初(おたうえはじめ)が行われました。
田んぼは五十鈴川と朝熊山に挟まれた幅400メートル、奥行き60メートルくらいの大きさです。五十鈴川から水が引かれているようで、用水に小魚が泳いでいました。
バスの運転手さんが言ったようにすでに植えられて、しっかり根がはった様子でした。道路からは土手が高く盛られており、中に入ることはできません。
小学校のとなりに石碑が建てられており、ここが入り口となっています。人もいないし、入り口も開いているので、中に入ることができそうですが、静かな雰囲気がなんとも言えない緊張感をだしていました。
今年は9月4日に稲を刈る抜稲祭が行われました。苅られた穂は内宮は御稲御倉に、外宮は忌火屋殿に奉納されます。
3~4ヶ月で稲が実るので、稲をが実る期間を「年」と捉えたら、古事記中巻の天皇が寿命が長くなるのはこういう理由かもしれませんね。台湾に行ったとき3期作できると知ったので、古代は今よりもずっと暖かかったのかもしれません。
大土御祖神社(内宮摂社)
五十鈴川にかかる橋のふもとの大土御祖神社にお参りしました。御田植初のあとに、大土御祖神社に移動して「豊年躍り」が行われます。
御祭神は神田の土地の神様である大国玉神と水の神様が祀られています。境内には国津御祖神社があります。
また、大土御祖神社には宇治乃奴鬼神社が、国津御祖神社には葦立弖神社が一緒に祀られています。宇治乃奴鬼神社は五十鈴川を挟んだ対岸にありましたが、合祀されました。
櫲樟尾神社(四郷神社)
境内にあった看板によると、もともとは八王子社に祀られていた櫲樟尾神と「日本書紀」に登場する田上社の合祀によって作られました。田上神は家田田上宮(または矢田宮)の守護神でこの辺りの産土神として信仰されていました。
「櫲」「樟」も楠木と同じ意味をもつ古語のため二語を重ねて櫲樟(くす)と発音することから、明治三年に改名しました。その後明治41年に周辺の神社と合祀し、村全体の鎮守神社として四郷神社となりました。昭和26年には分祀されて楠部だけの産土神社となりました。
楠部の中心に神社跡があり、今でも梅が沢山植えられており、大切にされている様子が伝わってきました。家田田上宮は神宮神田よりも、櫲樟尾神社跡と考えた方が良いような気がしました。地元の間ではそう考えられています。神宮の節末社ではありませんが、20年に一度御神遷が行われています。
帰りはバスがもうなくなったので、ここから徒歩で五十鈴川駅に向かいましたよ。気持ちよい天気でしたが、やっぱり2時間くらい散策したので疲れました。