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三重県亀山市:鈴鹿国奈具波志忍山宮を訪ねて

忍山宮アイキャッチ画像 倭姫巡幸

倭姫命が天照大御神の御杖代になり各地を巡幸した場所を訪ねるシリーズです。

三重県に鎮座する伊勢神宮に奉る天照大御神はもともとは宮殿内に奉られていましたが、崇神天皇が宮殿内で共に生活を一緒にするのは恐れ多いと思われて、トヨスキイリヒメ(豊鍬入姫)に託し宮殿の外でお祀りするようになりました。

その後、垂仁天皇が倭姫に天照大御神の御杖代として任され天照大御神を祀るのに相応しい土地を求めてご巡幸がはじまりました。

今回は令和4年12月某日に三重県亀山市の奈具波志忍山宮を廻りました。

今回のコースは3つです。

  • 井田川駅から能褒野神社、日本武尊の御墓
  • 亀山駅から忍山神社、布気皇館太神社
  • 東海道から亀山公園

私の旅はこの本を参考にしています。内容もいいですが絵が可愛いのでお気に入りの本です。

駅から遠かった能褒野王塚古墳

亀山市の奈具波志忍山宮に参拝する前に、能褒野(ノボノ)王塚古墳と能褒野神社に足を運びました。

ホントに足を運んだって感じでバスに乗ることができず、駅から途中団地のなかにある茶臼山古墳に立ち寄りましたが、約2キロの道を40分かけて歩きましたよ。さすがに疲れました。

能褒野王塚古墳が日本武尊(ヤマトタケル)の御墓だといわれている理由は古事記や日本書紀に由来しています。

岐阜県と滋賀県の境にある伊吹山の神の怒りに触れて体調を崩し、三重県四日市辺りにつくころには杖で歩くのがやっとという状態になりました。能褒野あたりで故郷を懐かしむ歌と草薙の剣を熱田神宮の巫女・美夜受比売(ミヤズヒメ)に預けたままであることを後悔した歌を残し他界します。

とくに有名な歌がこの歌で、故郷の大和を懐かしむ歌です。

倭は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭しうるはし

井田川駅から茶臼山古墳

時間帯によっては1時間に1本しか来ないのどかな井田川駅の日本武尊像。

井田川駅前で降りると日本武尊の石像がお出迎えしてくれました。近くに団地があるわりには駅前は何もないのどかな駅です。

駅から5分ほど行った「みどり町第四公園(古墳公園)」に茶臼山古墳があります。詳しくは上の地図で移動したり拡大してお探しくださいね。

井田川茶臼山古墳に設置された看板

看板の説明では当時の姿とは違う様子で石室が埋められています。土砂の流出が激しいため墳形が分からず、ちょっとした土盛りのようです。

ただの丘に石が置いてあるだけのようですが古墳ですよ

しかし副葬品の様子から、このあたりの首長だったのではないかと考えられています。

看板のこの地域の拡大図

入り口にちょっと迷う能褒野王塚古墳

茶臼山古墳がある団地を過ぎた辺りから汗をかくようになったくらい、この日は暖かい日でした。サングラスは持ってきていたいましたが、帽子を忘れたので上着を頭にかぶせて歩きました。

安楽川にかかる橋から能褒野王塚古墳の丘が見えました。駐車場とトイレが設けられているので、タクシーや運送業者が休憩しているようでした。

日本武尊の御墓へ行く道が分からず迷いましたが、駐車場の脇から行くようになっています。

階段をのぼっていくと御墓にたどり着きます。宮内庁が管理しているって感じの柵と玉垣があって松があってと「古墳まで遠いな、森でみえないな」となっています。

宮内庁管轄って感じの雰囲気ですよね

この丘には能褒野神社があり、道路に面したところに鳥居があります。そこにある説明には、全長90メートルの前方後円墳で、前方部幅40メートル後円部径54メートルの北勢地域最大規模の古墳だそうです。北勢は三重県を5つに分けた地域のことで、桑名・四日市・鈴鹿・亀山あたりのことをいいます。

能褒野王塚古墳についての看板

ここから出土された特徴的な土器・北勢地区朝顔形円筒埴輪は池と水飲み場でみることが出来ます。すごく風景になじんでいるので、みすごしそうです。

これらの埴輪は、奈良県北部地域や京都府西南地域との関係がうかがえ、畿内周辺地域の勢力が濃尾地方へ伸展するルート上にある地理的条件によってもたらされたものである

平成15年10月「能褒野王塚古墳」説明書きより

関西本線のルートのことでしょうか?旅は誰かの協力が必要ですから、有力者のつながりはあるとおもいます。でもここはロマンチックな想像の方が楽しいと思うので、忍山神社との関係にしておきましょう。あとで説明しますね。

壁紙にぴったりな美しい池でした。左の紅葉のしたにある筒が北勢朝顔形円筒埴輪です

能褒野神社参拝

まっすぐにのびた参道の奥に日の当たる能褒野神社

Wikipediaによると地元の有志の企画によって創建された神社ですが、日本武尊の功績のため皇族の宮様のお力添えもあり明治28年に創建されました。

亀山駅前に一の鳥居があったそうですが、私が行った令和4年12月には姿を消していました。駅前が新しい雰囲気があったので、どこかに移動したのかもしれません。

周辺の古墳へ

能褒野神社の鳥居をでて、道を挟んだ反対側へ古墳を探しにいきました。上の地図で、「倭健命之碑・水之神の碑」あたりにいってきました。この水の神様は弟橘姫で一緒に祀っているそうです。石碑の説明でローカルですが貴重な情報が載っていました。

倭健命が東北地方にお子様を残されて、倭健命の死後何年かのちに天狗の姿になって辿りついた。その子孫が原家となったと伝えられています。

目の前の名越古墳は竹林になっていて古墳のカタチをとどめていないような感じでした。

倭健命の碑の近くにはWikipediaの説明に近隣神社40社を合祀したとありますが、そのひとつの那久(奈具)志里神社がありました。「なこし(名越)」と「なくし」言葉がにてますね。

そういえば能褒野神社境内地にも石碑があったようなきがします。

奈具志里神社跡
能褒野神社境内地にあった神社石碑

日本武尊の神社・能褒野神社はいわゆる由緒正しい神社で、明治の頃宮様が宮司をされていた神社であっても、ずいぶんとひっそりした静かな神社でした。

能褒野王塚古墳は近世では「日本武尊の御墓」の認識が薄いと解説の看板にありましたが、「伝えていく」って案外難しいことなのでしょうね。

また同じ道を通って井田川駅に戻りました。次の電車まで30分あったので待合室でお菓子などたべ、体力を回復させてお隣の駅亀山駅に向かいます。

弟橘姫の故郷・奈具波志忍山宮

東側の農免農道といわれる道路に面した忍山神社の参道

『倭姫命の御巡幸』の『倭姫命世記』によると、大比古命が「ここはお酒が美味しい鈴鹿の国で、奈具波志忍山といいます」といいました。

そして、この地に6ヶ月間滞在することになりました。

次に川俣の県造が祖大比古命参り相ひき。「汝が国の名は何ぞ」と問ひ賜ふ。白さく、「味酒鈴鹿の国の奈具波志忍山」と白しき。然して神宮を造り奉りて行幸せしめたまふ。また神田並神戸を作りき。

『倭姫命の御巡幸』の『倭姫命世記』より

亀山駅でもらった東海道散策の紙に井田川駅あたりに川俣神社がみえますので、加佐登駅から井田川駅辺りを川俣とよんでいたのでしょうか。また、加佐登神社の近くには日本武尊の御墓といわれる白鳥塚古墳がありますので、豊かな土地だったと思われます。

加佐登駅から井田川駅までに川俣神社が3つあります

大きな木々に囲まれた忍山神社

忍山神社の外観

亀山駅から東海道沿いに歩くこと約20分で、忍山神社に着きました。

この忍山神社の神職だった忍山宿禰の娘が弟橘姫です。

そうです。日本武尊はあともう少しで妃の故郷にたどり着く予定だったんですよ。日本武尊の長い道のりを考えれば、能褒野と忍山は近くです。きっと忍山宿禰に弟橘姫の最後の姿を伝えたかったのではないかと思います。

忍山神社の御祭神は猿田彦神が祀られています。ここに越してきた人たちが猿田彦神の一族だったため、氏神の猿田彦神を祀ったことが起源とされています。

古事記では弟橘姫との出会いが書かれておらず、相模湾の海神を鎮めるため身を投じた話で登場します。しかし焼津で火攻めにあったときも一緒にいたことを考えると、道中ずっと一緒に旅をされたのでしょうね。そして猿田彦神の末裔ということもあり、道を切り開くお役目を自覚して海中へ行ってしまったのかもしれませんね。

弟橘姫の歌が古事記には載っています。

さねさし 相模の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問ひし君はも

授与所に興味深い写真がありました。傘鉾です。

全国的に珍しい傘鉾の形態。

亀山市観光協会のサイトによると、須佐之男命の荒魂をなぐさめるために行われてきた神事で10月14日に催されています。「全国的にも珍しい形態」とあります。

もうひとつの宮地所・布気神舘太神社

布気神舘太神社:東海道からはいる参道

忍山神社のほうが「おしやま」と書かれているので有力ですが、こちらの布気神舘太神社(ふけこうたつたいじんじゃ)も御巡幸地のひとつではないかと思います。『倭姫命の御巡幸』には布気神舘太神社が比定地とされています。

上の忍山神社の地図でお探しくださいね。忍山神社を右に移動させ、拡大すると表示されますよ。

御神殿が神明造りのこと、参道入り口の石に「御鎮座古所」とあること、経済的に豊か(ぽそう)なので、鎮座地または強力地だったと思います。

もともとは布気神社の社名であったが、天照大御神の御巡幸に際して神田や神戸を献上したこと、近くの神社を合祀したことにより布気神舘太神社の名前になりました。

私は忍山神社から岡を登るかたりで布気神社にたどり着きました。階段に石灯籠が並んでいます。階段をあがれば、すぐに神殿の広庭にでました。

県道565号線からの坂を登った入り口の石灯籠

立派な石灯籠を両側に備えた立派な拝殿です。忍山神社に比べて参列者が沢山入れそうです。やはり東海道に面しているせいか有権者さんに多く崇敬されていたのでしょうね。

布気神舘太神社の拝殿

本当の参道は神社北側の東海道になります。灯籠が並び神殿前の明るさと森の中の暗さの対比がとても綺麗でした。

あまりピントがあっていませんが、日差しが美しかったです

おわり

野村一里塚

布気神舘太神社からは東海道をとおり、亀山城へ行ってきました。といっても残っているのは多聞櫓だけです。

Wikipediaによると天守閣は丹波の亀山城と間違えて壊されたそうです。そのために石垣の上に多聞櫓を作りました。そんな間違いがあるんですね。この失敗に比べたら、ほとんどの間違いは可愛いものです。

日本武尊の御墓は他にも候補があります。正式ではありませんが、熱田神宮のちかくにも白鳥古墳があり、看板に日本武尊が白鳥になって帰ってきたとありました。

倭姫の御巡幸が日本武尊と弟橘姫を結びつける旅でもあったわけで、御巡幸地ははじめから候補があって計画的に廻られたのかもしれませんね。