倭姫が天照大神の御神霊を鎮めるのに相応しい土地を求められた足跡を追うシリーズです。
三重県に鎮座する伊勢神宮に奉る天照大御神はもともとは宮殿内に奉られていましたが、崇神天皇が宮殿内で共に生活を一緒にするのは恐れ多いと思われて、トヨスキイリヒメ(豊鍬入姫)に託し宮殿の外でお祀りするようになりました。
その後、垂仁天皇が倭姫に天照大御神の御杖代として任され天照大御神を祀るのに相応しい土地を求めてご巡幸がはじまりました。
令和6年6月上旬に元伊勢の一つである野志里神社を参拝しました。その参拝記になります。『倭姫命の御巡幸』を参考に廻っています。最後までお付き合い頂けると幸いです。
桑名野代宮について

(垂仁)十四年乙巳、伊勢国の桑名の野代宮に遷幸なりまして、四年斎き奉る。時に国造大若子命<一名は大幡主命>参り相い、御共に仕え奉る。国内の風俗を白さしめたまいき。
大若子命(おおわくごのみこと)は外宮神主である渡会氏の遠祖とされる人物で、倭姫命への貢献度が高く伝承上の伊勢神宮の初代大神主といわれています。このあと、ちょいちょい倭姫命から用事を頼まれて翻弄する様子がうかがえます。
本によると、『延喜式神名帳』に桑名郡十四座の一座として載っており、近くには古墳時代後期以降の下野代遺跡があります。この遺跡からは古墳と平安期から鎌倉期にかけての陶器片などが出土しています。
野志里神社は揖斐川に注ぐ肱江川の近くにあり、神社の裏には養老鉄道が走っています。境内地を割るように、美濃街道があります。境内を電車がはしる坂田宮もありましたね。とても神社が立派なので、昔はもっと広い境内地だったと思います。
美濃街道は中山道から垂井宿から名古屋熱田の宮宿をいいますが、ここから三重県の多度山の近くに通っています。いつ頃に美濃街道ができて、境内の中を通ったのでしょうか。
はじめて養老鉄道に乗る

桑名駅でJRから養老鉄道に乗り換えます。養老鉄道は三重県桑名駅から岐阜県大垣より先の揖斐郡を結ぶ鉄道です。はっきりいってローカル線です。でも、そこが鉄道の良さですよ、積極的にイベントを開催しており、サインリオとのコラボをしているときもあります。
交通系ICカードのパスモには対応していないので、駅で切符を買います。立ち食いそばのような発券機で購入し、電車内で精算機に投入して駅をおります。帰りは、駅にある乗車証明書というのかバスを乗る際に番号の紙をうけとりますが、それと似ています。

座席は緑色のシートでひょうたんの模様で可愛いです。しかし、目的の下野代駅は桑名駅から3駅、写真を撮って少し景色を楽しんだら下車となりました。

野志里神社に参拝

野志里神社へは線を沿いに歩けば、すぐに到着します。駅の方から歩いてくると右手の道路わきに野志里神社についての看板、左手に神社があります。看板の後ろにはご神木でしょうか、注連縄がはられた太い幹の木が生えています。

看板を見ると、「その旧跡が、この野志里神社だといわれていますが、その時代にはもう少し川寄りであたと考えられます」と書かれていました。川、とは肱江川なのか揖斐川なのかどちらでしょうね。時代によって場所が無理もないと思います。

本殿に進みますと、立派な石垣のうえに神社が建てられていました。脇から見るとすこし高くなっています。厳重に祀られている様子がうかがえます。

狛犬のところに仙人塚の札が立てられていました。読んでみると神社の在り方が今と違うことが分かります。
仙人塚の由来
一、元亀二年(一五七一年)織田信長・長島一揆勢に敗北双方の戦死者が葬られた
二、天正二年(一五七四年)織田軍に敗れ壊滅した長島一揆勢の戦死者が多数葬られた
三、慶長五年(一六〇○年)関ヶ原の合戦に敗れた西軍の一部が当地を逃走、その時の戦死者が葬られた

でも、ちょっと怖かったので、遠くから写真をとらせていただきました。

日本武尊尾津前御遺跡を訪ねて

野志里神社は駅から近かったので、もう一つ神社を訪ねることにしました。駅から歩いて30分ほどかかりましたが、日本武尊にまつわる遺跡です。日本武尊が東国東征の際に尾津浜に刀を忘れてしまいましたが、東国から帰る途中に尾津浜に戻ると元の場所にそのままありました。

日本書紀によると「もしも刀を自分が帰ってくるまで守ってくれた松が人間だったら褒美をあげるのにな」と書かれています。私のかばんがうつってますが、休憩させて貰いました。

この日は暑かったので、汗だくで歩きましたが、とても景色がよかったです。遺跡がある尾津神社は田んぼの中にある小さな丘の上にあり、また、鳥居の所から多度山が見えます。田んぼと空の緑と青がとても爽やかで、これが日本の里山風景なのかな、美しいなと思いました。
七里の渡しと桑名城跡散策

帰りの電車まで時間があったので、桑名駅に戻り散策しました。
今年の5月から伊勢神宮の式年遷宮が始まりましたね。七里の渡しにある鳥居は五十鈴川にかかる鳥居が移設されたものです。その鳥居は外宮の棟持ち柱から作られています。七里の渡しは熱田の宮宿と桑名宿を結びます。ここからは名古屋駅の高島屋のツインタワーをみることができました。
こころなしか、五十鈴川にかかる鳥居よりも小さくなったような気がします。
ちなみに内宮由来の鳥居は三重県亀山市の東の追分に立てられています。以前、元伊勢巡りで亀山に行きましたが、鳥居のことを知ったのはその後なので、いつか訪れたいと思います。

鳥居の近くには桑名城の一部である幡龍櫓があります。桑名城の天守閣はは1701年に火災に遭ってから再建されていません。残念ですが、立派だったと想像できます。現在は九華公園として整えられています。水城で有名な今治城とは違って、ほとんど池?のような城址でした。

別の日に神舘神社に参拝

『倭姫命の御巡幸』野代宮ページに紹介されている神舘神社には令和6年3月中旬に参拝しました。この日は蒸し暑い雨でした。駅から徒歩15分くらいのところにありますが、折りたたみ傘のためずぶ濡れになってしまいました。最寄り駅の近鉄益生駅では靴が乾くまで1時間ほど待合室に滞在させて頂きました。
駅から歩いていると、旧家のような雰囲気のよい家が並び火の見櫓がありました。そこは立場といって街道の宿と宿の中間地点である休憩場所として栄えた町並みだったようです。

そこを過ぎたころに神舘神社があります。神社というよりもお屋敷のような神社です。神社の看板には次のように書かれていました。

倭姫命が大和・伊勢を巡幸した時にここに休憩所として館が建てられ、しんぐうが伊勢に定まった後、神領の神明社として館跡に神舘神社が創建された
御神殿ではなくて「館」なのです。確かに垂仁天皇までは一緒の屋敷で天照大神を祀ってらっしゃったので、御神殿でなくても宮殿またはお屋敷でもいいでしょうね。それに本には「御厨(神戸の行政を担う役所)の旧跡に創建された、とありますので、お屋敷なのだと思います。そうやってみると、一般のお屋敷というよりも厳格な感じがしますので役所だったような気がします。

境内には鏡ヶ池があり、休憩の際に倭姫命が水を求められたところ湧き水がでて池となったそうです。はれていたらもっと美しかったと思います。
以上、最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。