倭姫命が天照大御神の御杖代になり各地を巡幸した場所を訪ねるシリーズです。
三重県に鎮座する伊勢神宮に奉る天照大御神はもともとは宮殿内に奉られていましたが、崇神天皇が宮殿内で共に生活を一緒にするのは恐れ多いと思われて、トヨスキイリヒメ(豊鍬入姫)に託し宮殿の外でお祀りするようになりました。
その後、垂仁天皇が倭姫に天照大御神の御杖代として任され天照大御神を祀るのに相応しい土地を求めてご巡幸がはじまりました。
今回は、令和5年5月下旬に奈尾之根宮を訪ねて伊勢神宮内宮周辺を散策しました。内宮までバスで移動し、そこから徒歩で五十鈴川駅に向かいながら、いくつか参拝します。今回もなかなか、自分で考えたコースですが疲れました。
内宮駐車場近→津長神社→磐座→宇治山田神社→上田神社→内宮別宮月読宮→五十鈴川駅
散策内容を全部書くとまた息があがりそうなので、『倭姫命の御巡幸』の掲載順にあわせます。
本当の「皇女の森」は何もないところ
本には宇治乃奴鬼神社の跡である塚を「皇女の森」と紹介しています。しかし、グーグルマップの情報によるとそれは間違いで、正しくは少し南に歩くと近鉄鳥羽線が走っています。その高架下の交差点あたりが「皇女の森」です。
・・・・。開発でなくなっちゃったんでしょうかね?ちゃんと調査したのかしらね?
皇女の森とは、第21代雄略天皇の皇女であり斎王である稚足姫(ワカタラシヒメ)・栲幡斎王(タクハタサイオウ)が密通の濡れ衣をかけられ五十鈴川のほとりで神鏡を埋めて自害したという伝説から名付けられました。
奈尾之根宮はどこか
本では「皇女の森」あたりが奈尾之根宮である説を紹介しています。とする、宇治乃奴鬼神社の跡なのか、近鉄鳥羽線の高架下あたりなのでしょうか。
倭姫は第11代垂仁天皇の皇女であり、倭姫と稚足姫では数百年の差があると思います。しかも、正しい皇女の森は時代や開発で交差点になってしまうので、高架下になってしまった皇女の森説はちょっと弱いような気がします。
宇治乃奴鬼神社の跡は家田田上宮と距離が近いので、今までの元伊勢をみるともう少し離れた距離なのではないかと思います。
宇治山田神社(内宮摂社)
皇女の森からさらに500メートルほど南に進んだ住宅街の中に森があります。ここが宇治山田神社です。読み方は「うじようだ」と読み、五十鈴川の守神で大水上神の御子である宇治山田姫をお祀りしています。
宇治山田神社は内宮摂社で、御同座の那自賣神社は末社です。那自賣神社の御祭神は大水上御祖命と御裳乃須蘇比賣命です。
また、この森は「興玉の森」とよばれ、猿田彦神の子孫である大田命の居住地だったと言われています。大田命は五十鈴川の上流を倭姫に紹介した人物で、ここに今の内宮が建てられました。
神社は丘の上にあるため、入り口が「ここは本当に入り口でいいのかな」と悩みます。よく見ると小さな石碑が建っており、「宇治山田神社」「神宮」と読むことができます。家と家の間の石畳の道を進み森の中に入ると、伊勢神宮で見られる立て看板がありやっと安心できます。
丘の頂上には一面苔が生えており、光があたり優しく清々しい苔の緑に感動します。神社の周りの住宅街や入り口の雰囲気とは別に、「ここが奈尾之根宮ではないか?」と思わせてくれる神聖な雰囲気でした。
津長神社(内宮摂社)
大田命によって奈尾之根宮から五十鈴川の川上へ案内されたときに、津長神社辺りに着きました。この場所は宇治橋から200メートルほど離れた鼓ヶ岳山麓のふもとにあたります。津長は五十鈴川の洲長になったところ津長原といわれたのが由縁です。
少し分かりづらいところに神社があります。伊勢神宮に一番近いお土産店「勢乃国屋」さんの裏手にあります。バスを降りて私だけ反対方向の駐車場へ、しかもその奥へ向かいました。
駐車場から一段高くなっているため、石垣と間違えそうな入り口です。正面に饗土橋姫神社があり、鳥居の前を右に進むと津長神社があります。津長神社には末社の新川神社と石井神社が御同座で祀られています。
饗土橋姫神社はアエドハシヒメジンジャと読み、宇治橋を守る神様です。鳥居から振り返ると宇治橋がよく見えます。こちらの神社にある手水周辺の苔が息をのむほど美しかったです。
おまけ:磐座
グーグルマップにはしっかり「内宮 磐座」と座標がたっており遷宮の山口祭が行われる場所とのことで参拝しました。しかし、観光気分で行かない方がよい神聖な場所でした。
山の斜面を少し登ると磐座が見えてきます。さらに登ると平地がありここで祭典が行われるのだなと思いました。
神聖な磐座の写真は掲載しません、見たい方はグーグルマップで見られますよ。